頭上で煌く銀の月、反す光は足元の水。

 呼ばれ振り向いたその先で、静に、声の主が跪いて。

「あの方を、助けたい。何でもする。望むのならば全て差し上げる。だから……」

 だからどうか、契約を――

 ともすれば聞こえない程の音、月明かりに浮かぶ鱗を閃かせ、小さな魚が跳ねて踊った。

 助けたい、助けられるものならば。でも怖い、全て奪われてしまいそうだから。

 もとより摂理と矛盾した存在であると云うその意識が、邪魔をする。

 助けることはできる。この存在と引き換えにすれば叶うけれど。

 一歩、無意識に足が引く。

「私が!」

 顔を背け逃げ出してしまいそうになった瞬間、叫ばれた。

「私が、あなたの命になる。全て使ってくれて構わない」

 既に動かなくなった右腕を庇い、更に全てを差し出す事も厭わないのだと叫ぶ。

 退路を絶たれると云うのは、きっと今のこの状況なのだろう。

 選択肢を与えつつも、逃げ道を全て塞いでしまうなど。

 いっそ従属せよと迫られる方が、どれ程までに楽なことか。

「私は幾度でも生まれる事ができる。だからこの命、あなたに差し上げても構わない。どうかあの方を、救って。あなたの意思で」

 月夜の影の中で真っ直ぐに見据えてくる翡翠が、どこへ向かっているのか解らない事に対する静かな恐怖。

 解っている、理解している。

 一度逃げ出したそれから、二度逃げ出す事は赦されない。

 目を閉じ深く、深く吸い込む夜の風。覚悟は、決めた。

 手を引き立ち上がらせてから、入れ替わるようにして跪く。

「我が深名をシェンフォン・ルゥシュ・リィレイ・ファンインと申す」

 拱手して、存在を押し留める為に自らで縛した封じ名を解き、名乗る。

「捧ぐ我が身我が魂、摂理条理を歪め在る者、我が父我が母留める為に契約を請う。縛せし覆名を与えまし」

 一度目は逃げ出し失った。

 二度目は失くさぬように逃げ出すまい。

「須らく祓いませ、留まりませ、与えし覆名を、タォユンと」

 頭上へ落とされた静かな声音に頷き、ゆっくりと上体を倒していく。

 目の前には、靴の先。

 触れるか触れないかその程度だったけれど、ひとつだけ。


「之より名乗りし我が名、タォユン……もう、逃げないよ」


 誓いを込めた、接吻けを。